親不知には歴史上の人物も逆らえなかった

こんにちは。寝屋川市の歯医者、おかべ歯科の岡部です。

突然ですが「親知らず」と聞いて何を連想しますか?多分、歯の「親知らず」ですよね。

語源は「赤ん坊の歯の生え始めと違い多くの場合、親がこの歯の生え始めを知る事が無いため、親知らずという名が付いた」と言う事です。

新潟県糸魚川市には歯では無く地名としての親不知(おやしらず)があります。変わった地名ですよね。なぜこのような名前が付いたのでしょうか?

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かつて北陸最大の難所と呼ばれた天下の険「親不知」は北アルプスから伸びた山裾が日本海へ垂直に落ち込む断崖絶壁の地です。

「親知らず 子はこの浦の波枕 越路の磯のあわと消えゆく」

壇ノ浦の戦い後に助命された平清盛の弟・頼盛(よりもり)は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)へ落人として移り住んでいました。このことを聞きつけた奥方は夫を慕って越後へ向かう途中この難所に差し掛かり連れていた愛児を波にさらわれてしまいます。その時に夫人が悲嘆にくれて詠んだ歌がこの歌だそうです。

なんとも悲しい歌ですね。この歌が「親不知」と言う名の由来になったと言われているようです。

また、日本海の荒波が旅人の行く手を阻み、危険な波打ちぎわを駆け抜ける際に、自分を守るのが精いっぱいで、親は子を忘れ、子は親を省みるいとまがない程に険しい道から「親知らず・子知らず」と呼ばれるようになったと言う説も有るそうです。

いずれにしても、それ程険しい地形と言う事が名前の由来になっている事には変わりなさそうですね。

歯の親知らずと糸魚川市の親不知とは関係ありませんでした(^^)

親不知の険しい地形には歴史上の有名人も悩まされたようです。

駒返し(こまがえし)と呼ばれる場所があります。

聖徳太子が出羽三山の主峰・羽黒山参詣の途中、ここから愛馬を返したと言われているようです。また源平合戦の時代には木曽義仲(きそよしなか)が都に攻める際にこの地で愛用の馬を郷里の木曽に返したと伝えられているそうです。これらの出来事から駒返しの名が付いたと言う事です。

戦国時代には親不知の峻険な地形の存在が越後の雄・上杉謙信の上洛を阻んだと言われています。

時の権力者達も自然の地形には敵わなかったと言う事ですね。自分の力ではどうにも出来ない事が有ると言う例えですね。